美しく暮らしたい

すべてを自らの手で作る暮らし

できることから

ひとつひとつ

開拓記 6 「重ねる」


 
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            2010 初冬








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倒した木々で建築に使えないものは細かく刻み、
ぎりぎり持ち上げられるくらいにして運ぶ。





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嫁も運ぶ。



伐りたての生木は水分をたっぷり含み死ぬほど重い。
一日の終わり頃には二人の四肢は完全に麻痺。
産まれたての子鹿状態に。



それでも日々それを積み重ねることによって
少しずつ少しずつ土地が整備されていく。

肩に残る痕と感触はそっくりそのまま
樹が重ねてきた時の重み。

重さによろけ蛇行する対の足跡は
そこに積み上げられた木の数だけ土地に刻まれ。

そういういろんなものの堆積が
とても貴重なもののように思える。

そういうことをしたり感じたりする機会は
とても少なくなってしまっているから。






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「夜空に月の無い時期に伐る木は長持ちする」

日本の林業に古くから伝わる教えがある。

"新月伐採"と呼ばれるもので、
冬のその時期に伐られた木はカビない腐らない、
反らない割れない、虫がつかないうえに色艶も良いとされる。


昔の伐採は冬季に、月の暦に合わせて行なわれてきた。

だが時は経ち、その言葉はかつての力を持たなくなった。
それに従う伐採はごくごく少数となる。
全くの事実無根と言い切る人も出てきた。


ただ月云々は別にしても、冬に木を伐ること自体は
ちゃんと理にかなっている。

木は冬の休眠期には水の吸い上げを止めるから、
重さはピーク時のそれよりずっと軽くなる。
あらゆる作業が楽になるし、乾燥もさせやすい。

それと同時にデンプン質が少ない時期でもあるから、
腐れや虫食いの防止にもなる。

さらに、枝葉を伐らずにそのまま放置してゆっくり枯らす
"葉枯らし"と併せることにより、カビや腐朽菌を防ぐ
フェノール成分を増加させることもわかっている。





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昔の知恵を闇雲に信じたいわけではない。

ただ、500年の歴史を持ち、日本の林業の手本
とされてきた吉野植林地域でも昔から伝わる教えだという。

そしてそれは欧州にも残る言い伝えらしい。
かのストラディバリウスも新月伐採の木で作られているとか。

そこに何かがあったとしても決して不思議ではない気がする。




冬は人の背丈くらい雪に埋もれる黒姫。
葉枯らしはあまり意味が無さそうなので諦めた。
けれど月の状態はなるべく意識しながら伐採を進めた。


木は生き物だから当然個体差があり、そもそも絶対の方法
なんてものは無いのだろう。
少ないサンプルのデータをもとに新月伐採の是非を問うのは
あまり意味がないと思う。

石油を使った現代の人口乾燥にも良い面はある。
完璧に品質管理され、完全乾燥させた木で作る家はきっと
長持ちするはずだし、それは森を守ることにも繋がる。

いろんな考えがあっていい。
むやみに新月伐採の木を信頼したり、
ブランド化して値をつり上げることには自分も疑問を持つ。

ただ、季節とか月とかそいうものと人との密接な関係が薄れ、
いつでもどこでもお構いなしに木々が伐られ、
どこにどれだけ送り出したかもわからないような状態で、
伐採から間もない木が10日くらいの強制乾燥を経ては
次から次へと出荷されてゆく…

そういう世界だけがこの世に残ったとしたら、
それはなんだかとっても悲しい。

身をゆだねる自然に五感を重ね、
作るものやそれを渡す相手に想いを重ね、
重なる時間や重ねる時間に心を重ねる。

人間とは本来そんなものであるような気がして
ならないから。







黒 姫 13:41 -
「未 草」
 
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開拓記を綴っている途中ですが、
ここでそもそも何故そんなことをしているのかという
一番大事な部分について触れておきたいと思います。



今から十数年前、オーストラリアの山あいの草原で
自給自足に生きる家族と出会い、人生が変わりました。
 
周りにある木や石、土や廃材で作る家も、
そこに暮らす人々の顔もまた美しく、
何より日々の暮らしそのものがたまらなく美しかったのです。
人間のあるべき姿を見た気がしました。

以来「どうしても伝えたい生き方がある」
強くそう思うようになりました。



帰国し、必要な技術を学びながら
自然のものや、棄てられゆくものたちを集め、
暮らしにまつわる様々なものを自分で作り始めました。

それが生業として成り立つのかどうかはあまり考えませんでした。
そして今もあまり深くは考えていません。
ただただ、彼らのような生き方を目指し夫婦で共に歩んでいます。

ようやく探し求めていた理想の土地に出会うことができました。
今までの廃材や古布などを使った作品作りに加え、
より身の周りの自然を生かしたもの作りをしてゆきたいと思っています。
そしてそれらは、衣食住全てに渡ったものへとなってゆくことでしょう。

そんなもの作りや生き方を通して伝えたいこと。
それは、身の周りにある自然の力を借り、既にあるものを上手に利用すれば、
人は十分豊かに幸せに、そして美しく生きることができるということ。

それを実践し示してゆくことこそが自分に与えられた役割だと思っています。
その表現のひとつとして昨年HPを立ち上げました。

知人にはお知らせしていたのですが、
一年の準備期間を経て、今日より本格始動させたいと思います。


http://hitsujigusa.com/


名は 「未 草」 (ひつじぐさ) といいます。
日本に古くから自生する唯一の睡蓮の名を借りました。

あの土地で、大地にしっかりと根を張り、
流れる水に身をゆだね、毎日広い空を眺めて生きてゆく。

それをひと言で表せる言葉は何かとずっと考えていました。
そんな時、黒姫近くの池で出会ったのがこのヒツジグサでした。
ストンと二人の胸の奥に落ちました。

水に漂い、泥の中から控えめで美しい白花を凛と咲かせるその姿に、
自分達を重ねて思いました。そんなものでありたいと。

そうして生きた暮らしから零れ落ちる種のようなものが
誰かを幸せにしたとしたら自分達も幸せ。
そんなもの作りでありたいと。

歩いた跡に一輪の花を咲かせたい。
そんな想いでものを作り生きてゆきたい。


まだそれとわからない新芽のような「未 草」ですが
末永く見守っていただけたら幸いです。

今後ともどうぞよろしくお願い致します。


 小林 寛樹 ・ 庸子



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黒 姫 15:03 -
「一 年」

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3月11日。 あれから一年。


最愛の人を失い、
築いてきた仕事の全てを流され、
命のような土地まで奪われる…

自分だったらもう頑張れないかもしれないと
正直思う。



それでも立ち上がろうとしている人達がいる。

自分に何ができるのかじっくり考えたい。
去年訪れていない福島にも何かを。




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東 北 17:27 -
「展示会」

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目白の展示会が無事終わった。

思った以上に多くのかたに足を運んでいただいた。
遠方からもたくさんのお客さんに来て頂き、本当に感謝です。
ありがとうございました。




5月の松本展の参加について度々聞かれているので、
この場でもお伝えしようと思います。

そろそろ次へ進まなければという思いがあり、
松本展は去年を区切りとすることにしました。

本当は一昨年で最後の参加と思っていたのですが、
昨年は特別展への参加、手記の寄稿、三谷さんとの対談と
いろいろと企画を組んでいただいたので、
最後の締め括りにと思い参加させていただきました。
なのでもう出展はしないつもりです。

楽しみにしていてくださった方々、すみません。


まだ作品をどこに出したらよいかもわからないような頃、
松本展に拾っていただいた。
以来、本当にお世話になってきた。
なくてはならない出会いもたくさん与えてもらった。
その時々の瞬間があの公園の空気と共に鮮明に思い出される。
野外展ならではのことだ。

あらためて、大きな力と影響力を持ったイベントだったなと思う。
駆け出しだった自分に今と未来を与えてもらった。
感謝してもしきれない。

これからもそうやって、若い人がたくさん巣立ってゆける場で
あってくれたらいいと思う。




そのかわりに5月の中頃、
季節の良い頃に、自宅での展示会を考えています。

うちの自宅は本や雑誌には紹介されているのですが、
実際に公開するのは初めてのことです。

米軍ハウスは有形文化財とかそういうものではありませんが、
失われつつある建築物で、今となっては貴重なものです。

実際、うちも来年取り壊し予定となっています。
そのまえに自宅で何かしたいという想いがあります。

古い建物が纏う独特の雰囲気、
剥がれ落ちた壁の陰翳、軋む床の音、
そんな全てと作品が渾然となった
ひとつの世界をつくり出せたらと思っています。

二度と出来ない展示になるかもしれません。
ぜひ足をお運びください。





告 知 22:19 -
開拓記 5 「伐 る」
 


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         2010 晩秋






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いよいよ大きな木を残すのみ。
ここからはチェーンソーの出番だ。

チェーンソー
この道具はそれまで木が重ねてきた数十年という歳月を、
一瞬で無かったことにしてしまう。
その威力は凄まじいものがある。

しかし文明の利器というものは駆使すればするほど、
どこか後ろめたいような感覚を伴うのはなぜだろう。

オーストラリアの島で真珠養殖の仕事に携わっていた時、
木は斧で倒していた。
時間もかかるし肉体的にも厳しいのだが、そのぶん何というか、
木との間にもっと"フェア" な関係があった気がする。

むろん、木を一方的に利用することに変わりはないのだが、
チェーンソーの力は木に対してあまりに圧倒的すぎるのだ。

人の手の百倍の仕事をするとも言われる。

百倍。
斧で一本伐る間に、百本の木を伐ることが出来る。
斧で十本伐る間に千本。 

ひとつの森が消えてなくなる…

 

忘れられない古い写真がある。
東南アジア、ボルネオ島の資料館で目にしたもの。
伐採され出荷を待つ丸太の写真なのだが、
その丸太の数が尋常でない。
一本一本を楊枝に例えるなら、積み上げられた楊枝が
机の上いっぱいに広がっているようなそんな写真。
戦慄を覚えた。

世界で最も古く多様な森と称されるボルネオの森が
重機という文明の利器によって、二度と戻れない姿にされていた。

よく使われる木材「ラワン」がタガログ語で意味するもの、
それは「豊かな森」…

ではその「豊かな森」はどこへ運ばれて行くのか。
皮肉なことに世界有数の森林国、日本なのだという。
なんともやり切れない気持になった。

合板(ラワン)、チェーンソー、重機。
自己矛盾に今も悩む。

 




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たくさんの命を奪った。








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木を倒すのは一瞬だが、その後の枝処理に莫大な時間がかかる。
一本一本枝を切り出し積み上げ、今後のためにとっておく。

ちょっと庭いじりしただけでもけっこうな枝葉の束が出るもの。
それが巨大な木、丸々一本分だ。
しかも次から次へと数十本の木が倒されてゆくのだ。

人の背丈をゆうに超える枝葉の塊が、土地沿いいっぱいに
高い壁を張り巡らせた。






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また土地が埋もれてしまうので末端の枝葉は燃やすことに。

木は種類によって燃え方が異なる。
火持ちも火力もそれぞれだ。
油分の含み方で葉や皮の燃え方も全く違う。
もちろん乾燥具合が違えば同じ木でも別物のようになる。
知っていれば適材適所、より無駄無く使うことが出来る。
昔はみんな普通に知っていたことなのだろう。

灰が大量に取れたので、お世話になっている人達に配る。
畑をやる人には喜ばれるのだ。
今自分にできる恩返しはこんなことくらいしかない。






黒 姫 23:30 -
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